上 大 岡・歴 史 よ も や ま 話
       
      上大岡に市電が走るはずだった!


      著者紹介
       長谷川敏雄
       長年航空写真測量会社に勤務し地図作りに従事。現在港南歴史協議会に所属し郷土の歴史秘話を探して奮闘中。(港南区大久保に50年居住)
      コラムタイトル
       1.上大岡・地名の変還
       2.上大岡駅の場所は偶然だった
       3.上大岡のランドマークだった大見湯
       4.上大岡にあった陶器工場
       5.戦前上大岡にいた外国人
       6.上大岡に「箱根」?
       7.駅前新道の目的は市電の延長だった 
       8.商店のはしりだった公設市場
       9.洪水の常襲地だった上大岡
       10.軍需工場の社宅跡にヨーカ堂が
       11.上大岡を用水路が流れていた
       12.上大間にあった火葬場
        
       
      上大岡駅前を四車線の鎌倉街道が通っていますが、昔からここに道があったのではなく、この道が作られたのは昭和30年前後でした。

      この道は終戦直後の昭和21年8月に神奈川県が弘明寺?関の下間を幅員22M道路の都市計画決定しました。戦後の混乱期になぜこの様な道路の建設が決まったのでしょう?それは道路建設が目的ではなく、目的は路面電車を通す為のものだったのです。実は弘明寺から関の下まで市電を延長する話は戦前からあったのです。
      【昭和30年代の横浜市電:上大岡まで延びる予定だった】
      〔「写真で見る南区がたどった70年の軌跡」より〕


      【市電・弘明寺終点から上大岡方面に路線延長と書かれている】
      〔湘南土地住宅(株)経営案内書 昭和4年頃(笠原孝雄氏蔵)〕
      【県道新道の形状が出来始めた頃の上大岡周辺】
      (昭和31年 横浜市撮影航空写真より)

      工事は昭和25年に始まり、上大岡駅周辺の道路形状は概ね出来上がったのでしたが、弘明寺方面の用地買収は地元住民の市電延長反対で一向に進まず、昭和37年に弘明寺から与七橋の工事が済んで、関の下から弘明寺まで全区間が開通しました。
      【昭和26年工事中の県道新道:土管や大きな石が写っている】
      (現在の上大岡駅前からミオカ方面を写す:鈴木英雄撮影)
      ちなみに上大岡周辺の新道工事では市電延長を前提にして、道路の中心部の4mは線路を引く為に玉石を詰めてあったそうです。しかし昭和30年代後半には自動車の増加により道路交通は渋滞し、社会情勢は路面電車から地下鉄の時代となり、昭和47年横浜市営地下鉄が上大岡?伊勢佐木長者町間に開通し、横浜市南部の中心地を弘明寺から上大岡へと変えていきました。

      【道路中心部は玉石が詰められていた様子が伺える:現在のドコモ営業所あたりの写真】
      (桜岡小学校所蔵蔵写真)



      【昭和47年市営地下鉄:上大岡?伊勢佐木長者町開通記念切符】


       
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