上 大 岡・歴 史 よ も や ま 話
       
      戦前上大岡に住んでいた外国人!
      (カール・ルイスのお話)


      著者紹介
       長谷川敏雄
       長年航空写真測量会社に勤務し地図作りに従事。現在港南歴史協議会に所属し郷土の歴史秘話を探して奮闘中。(港南区大久保に50年居住)
      コラムタイトル
       1.上大岡・地名の変還
       2.上大岡駅の場所は偶然だった
       3.上大岡のランドマークだった大見湯
       4.上大岡にあった陶器工場
       5.戦前上大岡にいた外国人
       6.上大岡に「箱根」?
       7.駅前新道の目的は市電の延長だった 
       8.商店のはしりだった公設市場
       9.洪水の常襲地だった上大岡
       10.軍需工場の社宅跡にヨーカ堂が
       11.上大岡を用水路が流れていた
       12.上大間にあった火葬場
        
       
      カール・ルイスと云うとオリンピックの金メダルリストの事を思い出しますが、縁者ではありません。大岡川村であった明治後期・大正時代から戦前まで上大岡に住んでいた米国人の事です。ルイスは慶応元年米国ケンタッキー州生まれ、13才で船乗りになり明治34年35才の時横浜に入港し船を降り、絵はがき商を始めました。自分で写真を撮り彩色、絵はがきとして英国や米国に向けて販売していた様です。当時欧米では絵はがきが流行して、結構日本の情景を扱ったルイスのものは人気があった様でした。

      【「カール・ルイス」が製作し、ロンドンに送った彩色絵葉書】
      (「明治の横浜手彩色写真絵葉書図鑑」のHPより)
      ルイスは大正の始め頃笹子サダと結婚し上大岡に居を構えます。しかし大正に入ると次第に絵はがきの流行も下火になり、その後ルイスは職を転々としますが、大正11年から昭和8年までフォード社勤務し役員までなり上大岡の人達を同会社に就職させたそうです。
      (「港南の歴史を学ぶ会」会報22号 津吹伸夫氏稿より)
      この様に上大岡の人達と同化していたルイスでしたが昭和13年に妻サダが亡くなり、戦争も激しさを増して日米関係も悪化、米国大使館から帰国勧告を受けるが日本に残る事を決意、昭和16年12月8日真珠湾攻撃の日に敵性外国人として検挙され、以後自宅監禁状態になり、昭和17年5月19日自宅で76才の生涯を閉じました。

      【上大岡の自宅でくつろぐカール・ルイスと妻サダ(晩年の昭和12年頃か)】
      〔「絵はがきの時代」細馬宏通著 青土社刊より(横浜市図書館蔵)〕


      【「カール・ルイス」の墓と旧宅の位置関係地図】

      最後まで日本を愛したルイスは妻サダと共に上大岡駅裏山の真光寺に眠っています。

      【上大岡駅の裏山の真光寺にある「カール・ルイス」の墓碑】

       
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