上 大 岡・歴 史 よ も や ま 話
       
      上大岡の駅裏にあった陶器工場


      著者紹介
       長谷川敏雄
       長年航空写真測量会社に勤務し地図作りに従事。現在港南歴史協議会に所属し郷土の歴史秘話を探して奮闘中。(港南区大久保に50年居住)
      コラムタイトル
       1.上大岡・地名の変還
       2.上大岡駅の場所は偶然だった
       3.上大岡のランドマークだった大見湯
       4.上大岡にあった陶器工場
       5.戦前上大岡にいた外国人
       6.上大岡に「箱根」?
       7.駅前新道の目的は市電の延長だった 
       8.商店のはしりだった公設市場
       9.洪水の常襲地だった上大岡
       10.軍需工場の社宅跡にヨーカ堂が
       11.上大岡を用水路が流れていた
       12.上大間にあった火葬場
        
       
       今回は大見湯を開設した北見忠蔵氏が作った陶器工場のお話しです。上大岡駅から東口商店街をセイジョー上大岡店方面に歩くと途中に屋根の上に小屋根が乗っている建物を見ると思います。この場所に今から80年程前、陶器工場がありました。

      【「北見製陶所」の事務棟:玄関横に狸の焼物が置いてある】
      〔「大横浜」昭和5年春特別号(横浜市中央図書館蔵)〕
      大正12年9月関東大震災が発生後、被害を受けた北見忠蔵氏は偶然、大雨で自宅の裏山の崖が崩れた際、その露出した粘土が陶土に適しているのではないかと直感、試験の結果良質な陶土と判り、京都から焼物職人の清水房太郎氏を招き、大正13年に工場を設け創業したそうです。当時の雑誌「大横浜」には「北見氏の犠牲的精神と清水氏の献身的な努力により、幾多の難関を突破し大正14年に製品を市場に出す事ができた」と書かれています。
      【「ヨコハマ焼」と書かれた煙突!】
      〔「大横浜」昭和5年春特別号(横浜市中央図書館蔵)〕
      「横浜焼」と呼ばれた焼物の種類は日本趣味の手製品で花瓶、茶碗、皿や、コーヒーカップ等の輸出品を大量生産していましたが、昭和14年6月に北見忠蔵氏が逝去され、その頃から国内情勢は戦争が悪化し欧米に対する輸出は難しくなり、ついに昭和16年頃には製造中止され「横浜焼」は20年程の短命で終わりました。しかし「北見製陶所」の玄関横にあった狸の焼物と同様のものが、現在笹下の東樹院境内に置かれ往時を偲ぶ事ができます。


      【昭和8年測量の横浜市1/3000地形図に記載されている「陶器製作場」】
      (横浜市中央図書館蔵)

       
      【「小鉢」表面】  【裏面(「ハマやき」と書かれている)】
      〔ヨコハマ焼の「小鉢」(北見忠治氏所蔵)〕
       
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