上 大 岡・歴 史 よ も や ま 話
       
      大見湯は上大岡のランドマークだった


      著者紹介
       長谷川敏雄
       長年航空写真測量会社に勤務し地図作りに従事。現在港南歴史協議会に所属し郷土の歴史秘話を探して奮闘中。(港南区大久保に50年居住)
      コラムタイトル
       1.上大岡・地名の変還
       2.上大岡駅の場所は偶然だった
       3.上大岡のランドマークだった大見湯
       4.上大岡にあった陶器工場
       5.戦前上大岡にいた外国人
       6.上大岡に「箱根」?
       7.駅前新道の目的は市電の延長だった 
       8.商店のはしりだった公設市場
       9.洪水の常襲地だった上大岡
       10.軍需工場の社宅跡にヨーカ堂が
       11.上大岡を用水路が流れていた
       12.上大間にあった火葬場
        
       
       前回の開通直後と思われる上大岡駅の写真で、駅後方に大きな建物が写っていたのを憶えておりますか?遠く最戸の山々まで見通せる程、遮るものがない情景でひと際目立つ建物が今回お話しする「大見湯」と呼ばれた銭湯だったのです。

      【上大岡駅(開通直後)の後方に見える「大見湯」の建物と煙突】
      (桜岡小学校蔵)
      「大見湯」は大正初期に大岡川村の村長も務められた北見忠蔵氏が、関東大震災後の昭和初年頃に山から水を引き鎌倉街道沿いに開業させたそうです。おそらく上大岡で最初の銭湯だったのでしょう!この北見忠蔵氏は上大岡駅裏近くで大正13年に「ヨコハマ焼」を創業された方です。

      【上大岡駅から弘明寺方向を撮った写真に写った「大見湯」(左の煙突)】
      (昭和28年頃 ミヤコ写真館撮影)

      【右奥に大見湯の煙突が見える。手前に床屋のマークが写っている】
      (昭和32年頃の写真:桜岡小学校蔵)
      〔現在の「りそな銀行」前の鎌倉街道からメガネドラック方面を写す。
      大見湯は現在ではソフトバンクの営業所があるビルの場所〕
      この「大見湯」には終戦直後の昭和20年に8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました。それによると終戦後、父親が復員して「美空楽団」を結成し、戦後最初に人前で美空和枝が歌ったのがこの「大見湯」だった様です。なぜ上大岡だったのかは、おそらく当時横浜の市街地は空襲により焼け野原となって銭湯も焼け、住んでいた滝頭から一番近くにあって焼け残っていた銭湯がこの「大見湯」だったのでしょう。また当時銭湯は燃料がなく営業できずにいた様で、小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。


      【火災保険地図(昭和5年11月作成)に大見湯!】
       〔左の二軒長屋には「髪結い」と「床屋」も置きました〕(横浜市史資料室蔵)

       
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